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【河野敦子さん・68歳】悲しくても、「やわらかな心」で前を向く

事務職からインドでの単身ヨガ修行、そしてニューヨークでの結婚生活――。

連載 60年、酸いも甘いも讃えたい 2021.3.06

取材・文:出口夢々

60年生きた女性にはいろいろな人生がある。そして、女性一人ひとりはそれぞれ自分の人生を背負い、生きている。若くして家庭を持った人、働きながら子どもを育てた人、社会で戦い抜いた人——。そんな女性たちが経験した、人生の「酸い」や「甘い」を紹介する連載企画「60年、酸いも甘いも讃えたい」。
第5回目は、東京都港区にお住いの河野敦子さん(68歳)にインタビュー。ライフワークであるヨガとの出会いや、最愛の夫との暮らし、歳を重ねるうえでの姿勢について話を伺った。

 

東京都港区にお住まいの河野敦子さん。熊本県で育った河野さんが上京してきたのは、大学進学時のことだ。

ミッション系大学を出た母の影響により、河野さんは幼いころからカトリックの教育を受け、中学生からは全寮制のミッション系中学校に入学した。そのまま高校を卒業するまで、キリスト教の教えのもと学問に励んできた。高校卒業後も当然のようにミッション系の女子大へ進学し、英文学を学ぼうと考えていたが、母の一言で進路が大きく変わる。

「『どうして英文学を学ぶの? それよりも体育大学に行きなさい。あたたは身体が弱いんだから、身体を鍛えていなさい』。そのころは、結婚したら女は体力勝負、というような考え方が強い時代だったので、そんな母の言葉を素直に聞き入れ、体育大学に入学しました」

東京にある体育大学へ進学した河野さんは、走ったり泳いだり、入部した柔道部での稽古に励んだりと、絶えず身体を動かす4年間を送った。卒業後は一般企業の事務職に就職。運動ばかりの生活から一転、デスクワークを中心とした生活になったことで筋力が低下し、ぎっくり腰を繰り返す。そのとき友人から腰痛予防に勧められたのが「ヨガ」だった。

週に1回、仕事終わりにヨガ教室へ通い始めた河野さん。見る見るうちに夢中になり、指導員養成コースへ通うようになった。

「ヨガと聞くと、ポーズの美しさや身体の柔軟性を問われるものだと思う方が多いですが、実は、ヨガで一番大切にされているのは心の柔軟性なんです。心が柔軟であれば、どこへ行っても自分を柔軟に変化させられ、与えられた環境でエンジョイできるし、幸せになれる、という哲学に興味を持ち、気づいたら週に4回も通っていました(笑)」

日中は仕事をし、夜はヨガに励む生活を5、6年続けたある日、河野さんは日本で開催されていたヨガの世界大会でボランティアをしていた。そこで河野さんに声をかけたのが、当時、ハタヨガの世界一と言われていたインド人・B.K.S.アイアンガーの通訳だ。

ハタヨガとはヨガ流派の基本で、ポーズと呼吸で身体を整えながら心身ともに浄化し、バランスを整えていくもの。アイアンガーは、長年のヨガの実践と研究にもとづき、現代に生きるすべての人が伝統的なハタヨガを効果的に学べるメソッドを体系化した人物だ。現在、世界各国で練習されているハタヨガのほとんどが、アイアンガーの影響を受けていると言われている。

「突然、『インドに来て、アイアンガーのところで勉強しないか』と声をかけられて。とても驚きましたが、『今しかチャンスはない』と思い、仕事を辞めてインドへ向かいました

バックパックを1つ背負って、インドを訪れた河野さん。半年間、アイアンガー師の家に住み込みでヨガの勉強をしたが、その厳しさは尋常ではなかった。30分間逆立ちをするように指示された河野さんは、挑戦するものの、時間が経つにつれどうしても身体の軸が揺れてしまう。するとすかさず、アイアンガー師は河野さんを蹴り、「気持ちが入っていない」と一喝した。練習時間は1日8時間にもおよんだ。

「アイアンガー師はものすごく厳しかったですが、当時の私は練習が楽しくて楽しくて仕方がなくて(笑)。殴られることもありましたが、その奥に彼の愛情を感じていたから、嫌ではなかったんですよね。むしろ、私に対してそこまで真摯に向き合ってくれているのが、うれしくて」

「アイアンガー師の家に住み込みで練習できるのは、同時期に2、3人まで。それ以外の生徒たちは近くのホテルに泊まって彼のもとに通うようなスタイルだったんです。なので、住み込みをさせてもらっている時点ですごく恵まれてはいたんですけど、門限が夜の9時なのが私は嫌で(笑)。外で食事をして家に戻ると門限を過ぎていたことが何度かあったのですが、そんなときは門の前に先生が立っていて『アッコ(河野さんの愛称)遅い!!』なんて怒られたりして。私は仁王立ちしている先生を余所に、笑いながら先生と門のあいだをくぐり抜けて家に入ったりと、まるで親子のような関係でしたね」

厳しい指導の底にある恩師の愛情を受けながら、インドで生活した河野さん。あまりの厳しさにプログラムの途中で帰国してしまう生徒も少なくはなかったが、河野さんは最後まで師事し、半年経つころには上級クラスへ参加していた。

「インドは合う人と合わない人がいる、とよく言いますけど、私は合う、合わないという問題ではなく、『呼ばれて行った場所』だと思っています。カルチャーショックを受けることも多々ありましたが、インドでの暮らしは私を変えさせてくれたんです。もともと神経質なところがあったんですけど、日本に帰ってきたら家族にびっくりされるくらい呑気になっていて(笑)。霊的指導者であるサティヤ・サイ・ババや、ダライ・ラマ14世とお話をさせてもらう機会もあって、『これは人として成長するチャンスなんだ』と考えながら、半年を過ごしました」

日本に帰国後、河野さんは関西を拠点にヨガ教室を開き、ヨガ指導員として活動。アイアンガー師のもとでともに練習に励んだ海外の仲間や、日本に留学しに来ている外国人学生も、時折河野さんのヨガ教室に参加していた。のちに河野さんは、ヨガ教室に来ていたエヴァーさんと結婚することになる。

「いつもニコニコしていて、優しい彼にいつしか惹かれていた」と語る河野さん。日本で5年ほど交際した後に結婚し、その後は夫の転勤に伴いニューヨークへ移住。当初は3、4年の異動のはずだったが、仕事の関係で25年間もの時をニューヨークで過ごすことになった。

実は、私、7回も流産をしているんです。子どもが1人いるんですけど、その子は5回目の妊娠でやっと授かった子で。息子が生まれた後、日本に一時帰国しているときに流産をしてしまったのですが、そのとき日本の産婦人科の先生に『1人子どもがいるんだし、何度も流産しているんだから、2人目の子どもを持つのは諦めなさい』と言われたんですね。確かに流産って、身体的にも精神的にもすごくキツいんです」

「でも、アメリカの先生は違っていました。何度流産しても、『違う方法を試してみよう』『大丈夫、大丈夫だから』と常に前向きな言葉をかけてくれて。5回目の妊娠のときも『育つ子は何をしても育つから、普段どおりヨガを教えてなさい』と言うんです。そういうアメリカ的なものの考え方にとても救われたので、主人の移住は思いも寄らない出来事でしたけど、アメリカで暮らせてよかったなあ、と思っています」

アメリカでもヨガ教室を開き、ヨガの指導を行っていた河野さんは、先生の言葉どおり、妊娠中も教室を継続。1991年には待望の男の子が生まれ、優しい夫と、生まれてきた子どもと平穏に暮らしていた。しかし、その生活はエヴァーさんの死によって終わりを迎える。

「がんを患っていると判明してから、わずか半年後に夫は亡くなりました。医者である主人の弟もニューヨークにいたので、主人はずっと弟に診察を受けていました。そこで主人は弟に『アッコは心配性だから病気のことをあまり話したくない』と言っていたようなんです。なので、彼が病院から帰ってきたときに『どうだった?』と聞いても『大丈夫、大丈夫』と言うばかりで。そうこうしているうちに亡くなってしまったので、主人は突然いなくなってしまった感じでした」

夫を亡くした河野さんは、彼のいないニューヨークでは暮らせないと、8年前に帰国。最愛の人を失った悲しみに暮れ、生きる活力を見失っていた。

「彼は私に本当の愛を教えてくれたんです。喧嘩をしているときでも私が転びそうになったら部屋の端から走ってきて助けてくれたり、友人からの誘いも『アッコが楽しいと思える場所なら行っておいで!』と声をかけてくれて、外出の後押ししてくれたり。『私の幸せが自分の幸せ』といった感じで、いつも大切にしてくれました

「夫は、何があっても動揺せずに、静かに物事を受け入れる人でした。彼が勤めていた会社が倒産してしまったときも、心配する私に『大丈夫、大丈夫』と言い聞かせてくれていましたし、彼自身が病気になったときもそうでしたよね。本当にピュアで、芯の強い人で……。そんな彼と暮らすうちに、彼こそが私にとって神様なんじゃないか、と思うようになったんです。キリスト教も、インドの宗教も勉強させてもらいましたけど、彼の存在が私の指針になっていたんです」

そう語る河野さんの目には涙が浮かんでいた。「2、3年も経てば元気になる」と声をかけてくれる人もいたが、尊敬する夫を亡くし心にぽっかりと空いた穴は、10年経った今でも塞がっていない。

しかし、「このままではいけない」と、一念発起。2013年に帰国してからの8年間、家で塞ぎ込んでばかりの生活だったが、2021年1月から、港区のいきいきプラザでヨガ教室を受け持つことになった。

「息子に言われたんです。『ダディはもう死んだんだよ。絶対生きて帰ってこないんだよ。だから、前に進むしかないじゃん』って。そう言われたときに、私、うわーっと号泣してしまって。そこで、今の私には心の柔軟性が足りていないと気づいたんです。インドにも行って、あれだけ勉強したのに、今の私にはまったく柔軟性がないなって」

愛犬のSeaちゃん。帰国後、Seaちゃんとの散歩の時間が唯一、社会と触れ合う場だった

「夫が亡くなる前に『アッコごめんね。僕と結婚したせいで日本を離れることになって。アッコがやりたいと思ってきたこと、全部諦めさせてしまったね』と言ったんです。もちろんそんな気持ちは微塵もありませんでしたが、夫の死によって、私のやりたいことに100%トライする機会ができたのではないかと考えるようになりました」

そう語る河野さんの表情からは、ある決意のようなものが感じられた。夫がいないことは悲しい――この悲しみを抱えてなお、前を向いて生きよう、と。

「つらいときでも、できるだけ笑うとまわりのみなさんがよい気を運んでくれると実感しました。自分のつらさは、誰に伝えてもわかってくれません。それに、そんな話も聞きたくないでしょう?」

夫の死を受け入れつつある今は、歳を重ねても、『まだできる』と自分に言い聞かせて、好きなことに挑戦していきたいと思っています。8年間何も手につかなかったけれども、若い人に『その年齢で新しいことを始めるなんてすごい』と思ってもらえるような、活力を与えられるような生き方をしていきたいです」

そして、河野さんは言葉を続ける。
「明日死んでも思い残すことなく生きていきたいです。いくつになっても勉強し続けて、最後まで輝いて生きていきたいと思うから、前に進んでいくことにしました」

  1. ミシェル

    大阪のECCでご一緒だった森下です。長居のマンションにも遊びに行かせて頂き、妹のように可愛がって頂きましたね。覚えていらっしゃいますか?敦子ねえさまの事はずっと気になっておりました。たまたま記事を拝見し、私も現在、西新宿に住んでいます。よかったらお話ししたいです。
    西新宿にすんでおります

    • 出口夢々(ZIEL編集部)

      こんにちは! 河野さまの記事を担当した、ZIEL編集部の出口です。こちらの件について、ご登録いただいた森下さまのメールアドレスに連絡させていただきました。ご確認くださいませ。

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